ベリーモバイルを運営する当社、a2networkは2005年に創業の会社だ。当時は、ドコモのiモード(ガラケーでYahooのようなポータルサイトが見れるサービス)全盛期だった。その頃に、iモードのシステム開発を請け負っていたIT企業が、ドイツに拠点を構えiモードのビジネスモデルをグローバル展開しようと目論んでいた。そこのドイツ拠点長と技術トップがスピンオフして創業した会社がa2networkだ。その流れで、最初にドイツで創業し、今でもドイツには拠点が残っている。
その頃は、今のようにモバイルOSやプラットフォームがオープン化されてなく、大分複雑な組み込み技術が必要とされていたため、その技術者を擁するa2networkはベンチャー界隈をすこ―――しだけ賑わせていた。億円単位の資金調達も行い、前途洋々だったようだ。
実は、私は創業メンバーでは無く、この当時のことは良く知らない。
最初の出会い
前職時代に、元々交流があったドコモの部長Hさんがa2network代表の門田を商談に連れてきたのが、a2networkとの最初の出会いだ。確か、2007年くらいだったと思う。私はその頃、海外の回線調達をする立場にあり、その後、何度か条件交渉や折衝などで接点は続いていたものの、a2networkとは数ある業者の1つという程度の関係性だった。
当時、自分は20代後半に差し掛かった頃で、ベンチャーやビットバレーという言葉に憧れがあった。a2networkが商社やVCから多額の資金調達で尖ったことをしていてるようだ、という噂は耳にしており、少し眩しく映っていた。けど、接してみると、ITバブル真っ只中だった当時の新進気鋭ベンチャーのイメージとは真逆の、なんかドン臭い会社だな、、、という印象だった。
リア充まっしぐら!からの、、、
その頃の私は、責任ある仕事も任され始め、仕事もプライベートも充実していた。20代後半で、結婚もして、犬も飼い、夢の年収1千万円も超え、港区白金台の一軒家に住み、まさにリア充シロガネーゼだった。
30歳で起業を決意していたものの、その決断から逃げていた。当時の会社で描いていたキャリア形成は完成形近くまで辿り着いた自覚はあり、あとは勇気を振り絞って独立するだけ、というところまでは来ていたが、その勇気がなかなか持てなかった。要は、環境に甘え、惰性で生きる術を覚えてしまったのだ。
そんな時期に、不幸が訪れた。
親友がガンを患い、亡くなった。お見舞いに行く度に痩せ細っていきながらも、懸命に笑顔で「来てくれて、ありがとう、ありがとう。」と、声を振り絞って言ってくれた光景は今でもたまに思い出す。一時期はずっと一緒で、寝食を共にしていた親友だっただけに、若くして見送ったのは相当堪えた。そして、その直後に最愛の飼い犬までも天国へ旅立ってしまった。失意のどん底まで落ち込み、何も手に付かなくなった。
失意の期間がどれだけ続いたのか記憶が定かでは無いが、暫くして一気に吹っ切れた。死生観が一変し、自分もいつ死ぬか分からない、一度きりの人生、後悔の無い人生を送ろう!と、海外起業の想いが再燃し、決断した。
そして、次の日には会社に辞職願いを出した。
実は、ノープランだった
やりたい事業はありながら、具体的に何から手を付けて良いか分からず、事業計画を机上で進めるも、絵に描いた餅では腹は膨れない。カナダでリベンジする為、最悪、ワーホリで現地に行ってから決めよう、と言う程度の浅はかなプランだった。
まずは、これまでにお世話になった方たちに御礼がてらアドバイスが頂きたい、と思い立ち、前出のドコモのHさんにも会いに行った。その時に、「門田さんも交えて一杯行きましょう」となり、3人で飲むことになった。
その会食の席で、ドコモとa2networkが協業してシンガポール事業を立ち上げる、という話を聞かされた。そして、そのプロジェクトでドコモシンガポールの拠点長に就任する人物が、目の前にいるHさんという偶然。んなもん、エキサイティングでしか無い。この話に飛びついた。
とりあえず動きたかったし、海外に出たかった、ビザも取ってくれる、ということでこのプロジェクトにジョインする方向でトントン拍子で話が進んだ。
シンガポール事業に参画
そして、シンガポールに渡った。身分はa2networkの所属だったが、主にドコモの方々と共に仕事をしていた。特に、前職では、法人営業部門が無かったので、ずっと営業の経験が積みたかった。それを前職時代から営業として尊敬していたHさんの近くでイロハを学べる、こんな恵まれた環境は、お金を払っても叶わない。しかも、海外で、だ。シンガポールが世界でも有数の外国人が起業しやすい国だということも知り、願ったり叶ったりな環境だった。
2年以内には独立することを条件に、このプロジェクトに参画することに合意した。ドコモ拠点長のHさんもいつまでいるか分からないし、このプロジェクト自体がa2networkの箱でサービスを立ち上げ、ゆくゆくはドコモに譲渡するところまで織り込まれた座組みだった。それがちょうど2年計画だったので、そこまで一緒に頑張ろう、という感じだった。
ビザのスポンサーをしてもらいながら自分の会社を設立することや、自分の事業に半分の時間を費やすことも柔軟に受け入れてもらえた。その分、報酬は言い値で合意した。確か、SGD3300だったと記憶している。当時のレートで、20万円程度だ。
貧乏生活
余裕綽々でドコモプロジェクトには半分の稼働でも期待以上の結果を出しながら、自分の事業の方に注力して、、、という算段だったが、ドコモプロジェクトで成果を出すためにはフル稼働でもいっぱいいっぱいだった。。。何とか結果自体は出していたものの、営業経験も乏しく、海外という地での仕事の進め方など、目の前の学ぶべきことが多すぎた。
まずは、このプロジェクトに集中しよう!と決めた。
個人事業主として業務委託を受けながら、ビザの身元引受人がa2networkというようなスキームのはずだったのだが、暫くは給与20万円の社員、のような立場になってしまった。。。
シンガポールの物価水準で20万円の生活はかなりキツイ。家賃に手取りの半分を割いても、中国人のババァ(言葉悪くてスイマセン、、、)2人とルームシェアするしかなかった。
毎朝、毎晩、とにかくババァ2人の口喧嘩がうるさい。
「あんたは、どっちの味方なの!!」と毎日、まくしたてられて、仲介を求められる。
共用シャワールーム美化は特に火種マターで、落ちていた陰毛を巡って夜中まで喧嘩していたときは、プールサイドで寝たこともある。
(犯人が自分だろう、という負い目があったのは否めないが・・・。)
カネはないけど、夢はある、という同じような境遇の人たちにも多く出会えた。その友人たちとフードコートに行っては席数と客単価から売上・原価を想定して利益率求めたり、ここで事業するなら何が一番儲かるか?とか、カネかけずに事業計画シミュレーションゲームとかやって遊んでたなぁ・・・(遠い目)。
貧乏だったけど、いろいろな意味で刺激的なシンガポールライフを楽しく過ごしていた。
そして、独立!
a2networkという会社に属してみても、やっぱりドン臭い、というイメージは変わらなかった。企業カルチャーが無く、経営資産と言えるものも見当たらない。属人的で一部のハードワーカーのお陰で何とかテイを為している、という感じだった。それもそのはず、眩しく映っていた気鋭ベンチャーの内情は、調達資金をほぼ溶かしてしまい、債務超過で財務ボロボロ、創業主要メンバーの離反も始まっていた。
この頃はa2networkという会社にロイヤリティも無く、プロジェクトとしてしっかりと成果を出すことに集中した。そして、既定路線通り2年以内に自分の会社を立ち上げた。このときの高揚感は忘れられない。やっと自分の会社が持てた。こんな会社にしよう、あんな会社にしよう、と夢は膨らんだ。
ドコモとのプロジェクトでは、早期に黒字化を果たし(そりゃ、自分の人件費が20万円なら、さほど難しい話では無い)、事業譲渡も成立し、いよいよ自分の会社に注力する時が訪れた。
、、、で、なぜ、自分は今、a2networkという会社を背負っているのか。
長くなってしまったので、その辺の経緯はまた今度。