【シラチャの歴史】なぜシラチャは日本人街になったのか?

【シラチャの歴史】なぜシラチャは日本人街になったのか?

昨今では「シラチャ=日本人街」として定着しましたが、今回はその謎に追ってみます。
シラチャの歴史が少しでもお伝えできればと思います!

1.昔のシラチャってどんな感じ?


現在のシラチャと呼ばれる地域では、農業や漁業が盛んな地域でした。
今でも有名ですが、サトウキビやキャッサバなどの工芸作物が中心に栽培されていました。その他にもパパイヤやマンゴーの生産量が多かったです。さらに現在のカオキアオ動物園周辺の山には、約200種類以上の動物が生息していると言われるほど自然豊かな場所だったのです。
海沿いでは、カニやエビなどの甲殻類、イカや貝類が多く収穫できる漁場として栄えました。今でもシラチャ公設市場に沢山の魚介類が並びますので、イメージもつきやすいと思います。
 
1903年頃になると、現在のバンプラー地区(シラチャの隣町)へ製材関連の会社ができ、労働者がシラチャ近郊へと集まって来きました。そして1917年に入り、地域を統治していた代表たちの議会にて、「シラチャ」という地名が正式に決まったのです。
 
生活環境としては、シラチャ周辺の気候は昔から雨季は大雨で潮風が強くなる欠点はありましたが、通年を通して乾季はそれほど暑くなく、冬季は比較的暖かい気候に恵まれていました。そのため、産業の発展と住みやすい気候が合わさった事で人が集まってきたわけです。

2.シラチャ近郊の経済発展


農業や漁業の街から現在の“工業系の仕事”が増えた理由は、1967年のバンコク宣言によって東南アジア諸国連合(アセアン)が設立されたためです。
 
現在のイースターンシーボード工業団地周辺の開発が開始されたのは1980年代のことであり、その時、タイが国内外へ投資を呼びかけました。日本からは自動車産業のメーカーが多く賛同したために日系法人の進出が強まったのです。
1990年にはタイ自体が経済危機に陥りましたが、1992年にアセアン自由貿易協定(AFTA)を締結し、レムチャバン港を中心にシラチャ近郊の海岸沿いが一気に注目を集めました。
東南アジア諸国及び中国とインドなどを含む国々との貿易中心地となれたことで自国の経済危機を乗り越えることができています。
 
現在では、東部経済回廊(EEC)の経済活動が進められており、以前のイースターンシーボード開発に続く経済発展フェーズに入っていると言っても過言ではありません。
EECではチャチュンサオ県、チョンブリ県、ラヨーン県の3県が対象となっており、この経済回廊が完成することでタイ国内外で陸・海・空の輸送が更に発展する予定です。

3.なぜ日本人が集まってきたのか?


1990年代の経済発展に伴い、日系の自動車産業に関わる駐在員が増えてきました。特に当時は工場の建設レベルの業務から関わるスタッフが多く、各社が大勢の日本人を駐在させ始めました。
 
そこで注目されたのがシラチャという街です。
イースターンシーボード工業団地へバンコクから行く場合は2時間以上かかり、パタヤに住んだとしても欧米人向けの飲食店等が多く日本人にとってはやや不便さを感じる時代でした。シラチャに住めば1時間ほどで会社に到着できるため、地理的にも毎日の通勤のしやすさが注目されました。
 
一方、シラチャ市街地では日本人をターゲットとした飲食店や宿泊施設の営業が盛んとなり、“リトル大阪”と呼ばれるようになりました。シラチャの最盛期には、約5,000人もの日本人が住み、日本食系のお店も60店舗以上になっていたほどです。
お世辞にも今のシラチャ市街地でも広いとは言えませんが、そこに60店舗以上の日本食屋さんが並んでいたと考えると、20~30mに1店舗はお店があった感じだと思います。
 
その後、2009年の日本人学校の設立や2012年頃からの不動産開発の加速などが進み、今の「日本人街」と呼ばれる街へと発展をしていきました。

4.2022年4月のシラチャの様子は?


2021年はCovid-19の感染予防対策で、シラチャの街は一機に静まりかえりました。感染予防の対策が幾度となく繰り返され、町が明るくなったと思えば、翌月には真っ暗へ、、、という時期が続いています。
 
2022年4月現在は、歓楽街を含め、多くのお店が営業を再開しています!
残念ながら閉業となったお店も数多くありますが、業態を変更して再挑戦しているオーナー様も沢山います。
今回は、カメラを持って市街地を1周してみましたので最近の様子をベリーモバイルのYoutubeからお届けです!
是非、ご視聴ください。
 

~ YouTubeでご紹介 ~

 

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