タイ・チョンブリー県のシラチャは、日系企業や駐在員が多く暮らす街として知られています。ですが、シラチャが今の姿になったのは、実はそう昔のことではありません。前後編にわたり、郷土史資料や公的機関の記録をもとに、漁村だった時代から今に至るまでの歩みをたどります。前編では、漁村・製材業の時代から港湾都市としての基礎ができるまでをご紹介します。
シラチャは、もともと何の街だったのか
製材業以前は漁業の集落だった
今でこそ工業や商業のイメージが強いシラチャですが、地域研究機関が公開している資料によると、製材業が発展する以前のシラチャは漁業を営む人々が暮らす沿岸の集落だったと説明されています。海に面した立地を活かし、漁を生業とする人々がひっそりと暮らす、静かな漁村だったようです。集落そのものがいつごろ形づくられたのかまでは資料でも断定されていないため、本記事では「漁村としての時代があった」という点にとどめておきます。
当時のタイは、チュラロンコーン大王(ラーマ5世)の治世のもとで近代化が進められていた時期にあたります。鉄道や電信の整備、行政制度の刷新など、国全体が大きく変化していく最中に、シラチャもまた次の時代へと歩み出そうとしていました。
チャオプラヤー・スラサックモントリーと製材業の始まり(1900年)
シラチャの街が大きく動き出すきっかけのひとつが、1900年ごろに始まったとされる製材業です。地元の郷土史団体が伝える会社史によると、チャオプラヤー・スラサックモントリー氏による製材事業がこの地で始まり、それにともなって労働者の流入や市街地の発展が進んだとされています。
製材業は単に木材を加工するだけの産業ではなく、伐採・輸送・加工・出荷という一連の工程を通じて、多くの人手を必要とする産業でした。そのため、事業が始まったことで各地から労働者が集まり、集落だった場所に少しずつ「街」としての機能が備わっていったと考えられます。漁業だけだった土地に、産業と人の流れが加わった大きな転換点といえるでしょう。
人が集まれば、そこには当然、暮らしを支える市場や商店、住まいが必要になります。製材業という一つの産業をきっかけに、シラチャは「働く人が暮らす街」へと少しずつ形を変えていったと考えられます。今、シラチャの旧市街に古くからの商店が点在しているのも、こうした街の成り立ちと無関係ではないのかもしれません。
シラチャという地名の由来には諸説あり、確たる裏付けが取れていないため、本記事では取り上げていません。「なぜこの名前になったのか」は、機会があれば別の記事で改めて掘り下げたいと思います。
「郡」になるまでの行政史
バーンプラ郡役所のシラチャ移転(1903年)
産業の発展にともない、行政の中心もシラチャへと移っていきます。郷土史資料によれば、1903年に郡役所がバーンプラからシラチャへ移転しました。ただし、この時点では郡の名称自体は「バーンプラ郡」のままだったとされています。役所の場所だけが先に動き、名前は後からついてくる――こうした行政上のタイムラグは、当時のタイの地方行政ではめずらしいことではなかったようです。
シラチャ郡への改称(1917年)
その後、1917年になって郡名が正式に「シラチャ郡」へと改められたと郷土史資料に記録されています。役所移転から改称まで14年ほどの期間があったことになりますが、この間にシラチャの街としての存在感が実質的にも名実ともに強まっていったであろうことは想像に難くありません。現在わたしたちが「シラチャ」と呼んでいる地名が、行政区分としても正式に定着した瞬間だったといえます。
ちなみに、役所移転(1903年)と郡への改称(1917年)は、資料上も別々の出来事として記録されています。「移転=新設」「改称=昇格」のように一つの出来事として語られがちですが、実際には段階を踏んで進んだ変化だった、という点は覚えておきたいポイントです。
タイの地方行政は、県(จังหวัด)・郡(อำเภอ)・タンボン(ตำบล)・村(หมู่บ้าน)という階層構造になっており、郡はその中でも生活に密着した単位にあたります。シラチャが独立した郡として名実ともに認められたことは、単なる名称変更以上に、この地域の人口や経済活動がそれだけの規模に育っていたことの表れとも読み取れます。
Ko Loi島と旧市街のなりたち
木材輸送のための鉄道橋(1908年)
シラチャの街のシンボルのひとつであるKo Loi(コーロイ)島。現在は寺院や海に浮かぶような景観で知られる、地元でも人気の観光スポットです。しかし地域研究機関の資料によると、もともとは1908年ごろに製材業の輸送設備として島へ延びる鉄道橋が整備されていたとされています。
木材を切り出し、加工し、船に積んで運び出す――そのための実務的なインフラとして、Ko Loi島は活用されていたわけです。今わたしたちが「祈りの場所」「景勝地」として訪れているKo Loi島に、かつては産業の営みが重なっていたと知ると、島を眺める目線が少し変わってくるかもしれません。
現在のシラチャ・ナコン地区へつながる用地の変遷
地元の製材会社の沿革をたどると、1900年から1908年にかけて事業所の用地が段階的に移り変わり、最終的に現在のシラチャ・ナコン地区にあたる場所に落ち着いていったことが記録されています。約8年という歳月をかけて、事業の拠点が定まっていったことになります。
今、わたしたちが「シラチャの街なか」として認識しているエリア――市場や商店が並び、日々の生活が営まれている場所の原型は、こうした産業活動の積み重ねと深く結びついているようです。街を歩くとき、その足元に100年以上前の産業史が眠っている、と考えると、見慣れた景色も少し違って見えてくるのではないでしょうか。
現在のシラチャ旧市街には、細い路地に沿って古くからの商店や市場が今も残っています。近年整備された大通り沿いのショッピングモールやコンドミニアムとは対照的に、こうした一角には当時からの営みの名残がところどころに感じられます。散歩がてら旧市街を歩いてみると、製材業の街として発展していった当時の面影を、思わぬところで見つけられるかもしれません。
国策としての東部臨海開発(1980年代)
チョンブリー・ラヨーン・チャチューンサオへの投資
時代は下って1980年代。シラチャを含むチョンブリー・ラヨーン・チャチューンサオの3県にまたがる「東部臨海開発(Eastern Seaboard Development)」が、タイ政府の重要施策として進められます。首都バンコクへの産業集中を緩和し、地方に新たな産業拠点を築くことを目的に、港湾・道路・工業団地といったインフラ整備が本格化しました。
シラチャの発展は、一つの街だけで完結する出来事ではなく、こうした国レベルの産業政策の中に位置づけて見る必要があります。製材業の街として歩みを始めたシラチャが、この時期を境に、国家戦略の一部としての役割を担うようになっていったのです。
1980年代のタイは、輸出主導型の工業化へと経済の舵を切ろうとしていた時期にあたります。それまで首都バンコクに集中しがちだった産業や人口を、地方の拠点へと分散させる必要があった背景には、都市部の過密化や、より広い土地・港湾アクセスを必要とする重工業・輸出産業の要請があったとされています。東部臨海開発は、そうしたタイ経済の転換点を象徴する国家プロジェクトのひとつでした。
日本の円借款とBOIの地域優遇策
この東部臨海開発を支えた要素として見逃せないのが、日本からの円借款によるインフラ整備です。道路や港といった公共インフラが円借款で整えられたことが、その後の民間工場の進出を後押ししたとされています。日本とタイの結びつきは、単に企業が進出しただけでなく、こうした公共インフラの整備段階から始まっていたことになります。
あわせて、タイ投資委員会(BOI)による地域別の優遇策も、首都圏以外への立地を促す要因となりました。首都圏に集中しがちな投資を、税制優遇などを通じて地方へ誘導する仕組みです。
ここで触れているBOIの地域優遇策は、あくまで1980年代当時の制度についての内容です。現在も同じ条件がそのまま適用されているわけではないため、現行の投資優遇策として読まないようご注意ください。
製材業の街から工業立地としてのシラチャへ――この変化の背後には、一企業の努力だけでなく、日本とタイという二国間の協力関係、そして国全体の産業政策という、いくつものレイヤーが重なっていたことがわかります。
レムチャバン港の誕生
1987年着工〜1991年の一部ターミナル稼働
東部臨海開発の中核を担ったのが、シラチャに隣接するレムチャバン港です。港湾事業者の沿革によると、第1期工事は1987年に始まり、1991年にはB1・B3ターミナルが稼働を開始しました。計画が持ち上がってから実際に着工し、一部が使えるようになるまで、着実に段階を踏んで整備が進められたことがわかります。
レムチャバン港は現在、複数のターミナルが稼働する東南アジア有数のコンテナ港へと成長しています。その出発点が1987年の第1期着工にあった、という点は意外と知られていないかもしれません。
今でこそタイを代表する国際貿易港のひとつとなったレムチャバン港ですが、その始まりはこうした地道な建設工事の積み重ねだったのです。
港が地域の産業構造を変えた
レムチャバン港の稼働以降、周辺の工業地帯は製造業の輸出入拠点としての役割を担うようになり、内陸部には自動車・電機産業が集積していきました。港で働く人、工場に通う人、そしてその家族――多くの人がこの地に暮らすようになったことで、シラチャの街そのものの性格も、漁村・製材の街から、港と工業を支える街へと少しずつ変わっていったといえそうです。
製材業から始まった街が、港というもうひとつの「玄関口」を手に入れたことで、次の時代――日系企業の本格進出とグローバルな産業拠点化――へとつながっていきます。