Vol 4. 人生最初のターニングポイント、インドとの出会い

Vol 4.  人生最初のターニングポイント、インドとの出会い

今日は、タイムリーな話題も無いので、大学時代を振り返る。

大学時代は、うだつの上がらない、目的意識も無く、ただただ時間と金を浪費するだけの学生だった。そんな中、夏休みの短期留学で単位認定されるという、(当時)画期的なプログラムが大学で始まった。大学2年の夏、遊びに明け暮れるだけの2か月を過ごすことが目に見えていたので、記念受験してみた。プログラムが始まったばかりで知名度が低かったのも幸いし、運良く合格し、インドに交換留学に行った。これが、人生最初のターニングポイントとなった。

キラキラした目のインド人の学生たち

初めて行った海外がインド。バンガロールにあるIIT(インド工科大学)という、インドの理系大学への留学だったが、そこで触れた空気、人、光景全てが、それまで自分が持っていた常識を覆すもので、頭の中に稲妻のような衝撃が走ったことを覚えている。

インド渡航前は、インド人は所詮、発展途上国の学生くらいに思って高を括っていたが、見事に裏切られた。勤勉なだけでなく、勉強量も、知識量も、全く歯が立たなかった。仲良くなったインド人学生の下宿先に連れて行ってもらったのだが、学生全員が夜中まで小さな灯りで勉強をしていて、公共スペースではアカデミックな議論を重ねていた。なぜか、そこのBGMでミスチルが流れていたのも鮮明に覚えている。学術的な知識だけでなく、日本に関する歴史や博識も日本人の自分たち以上に知識が豊富だった。学習欲に溢れ、日本についても質問のシャワーを浴びるが、正確に答えられない自分が恥ずかしく、唯一、ちゃんと話せたのがBGMのミスチルの話題。何とも苦く不甲斐ない思い出だ。とにかく純粋な学習意欲と、高い知識欲と好奇心。未来を見る目もキラキラしている。

同年代にこんな人たちがいるのに、安穏と平和ボケの学生生活を謳歌していた自分が恥ずかしくなり、これは早晩、絶対に日本は抜かれるだろう、少なくとも自分は彼らより価値のない人間だ、そもそも日本という恵まれた環境に居ながら未来に何の希望も無かったことに気付き、危機感と焦燥感を抱き、帰国した。

 

バックパッカーの学生時代

インドでの衝撃的インスパイア事件を境に、大学生活後半は、英語の勉強と、アルバイトに勤しみ、長期休みごとに海外に赴き、いろいろな国の同じ年代の人たちと交流を重ねていった。自分の小ささも感じながら、みるみる視野が広がっていく興奮もあった。海外で出会う日本人も、ひと味違った価値観で、尊敬できる人たちが多かった。

そして、世界を少し知り始め、だんだん日本の将来に希望が持てなくなり、親の敷いたレールに乗っかることが、沈みかけの船で手を繋いで「皆で沈めば怖くない」、と暗示めいたメッセージに思え、恐怖感を覚え始めた。このままでは終身雇用が終わる、大企業で働いていたら来る大航海時代に立ち向かうには自立スキル習得に時間が足りない、と周りにこぼし始め、いわゆるイタイ学生になっていった。今から20年前だ。今思えば、一面的にしか見えてない小さな世界で解釈した悲観論ではあるが、この時に発していたような内容の発言や記事を見かけることが最近増えた気がする。当時は、かなり馬鹿にもされて、偏った考え方と揶揄されたが、朧げながら予言していた日本の20年後、つまり今の姿は近い部分も多い。

 

新卒で就職活動せずにカナダへ

就職氷河期真っただ中にありながら、99%の就職率を誇っていた大学の同学科で、1%の方に入ってしまった。もう良い大人なのに、個性なく横一線で足並み揃えて新卒一括採用、みたいな風潮に嫌悪感に似たとても気持ち悪い感覚に襲われていた。そして、就職活動を一切せずにカナダに行くことを決める。とにかく、自分が生きていけるスキルを早く身に付けて、自立したい、という強い想いがあった。そこで描いたキャリア像は、留学して、英語の勉強をしながら、カナダの就職に強いカレッジに通って、カナダで就職、という浅はかな目標設定だった。結果、カナダでは少し就職したものの、全くスキルも無い人間が通用するほど甘い世界でも無く、己の至らなさを知って、志半ばで帰国することになる。そして、学生時代にお世話になった通信系の会社に就職することになった。

カナダには2年程いたが、計画自体は浅はかだったが1ミリも後悔は無い。カナダで自分の可能性と、至らなさの両方に気付けたことで、20代の積むべきキャリアの方向性が明確になったのが大きな収穫だった。30歳での海外起業のリベンジを誓い、20代では高い意識で仕事と向き合えるきっかけに出来た。そして、自分で決断し、自分で人生の責任を取る、という当たり前の思考プロセスに気付けたことも大きかった。

 

クリアに見えてきた方向性

20代で世界中の同年代の仲間たちに刺激を受け、視野が広がり、日本人であるアイデンティティを培った経験はかけがえのないものだった。これを日本の若者・後輩にも伝えたい、経験して欲しい。自分が人生掛けて何か残したい、としたら海外で日本人が活躍できる一助になることだ、という漠然とした目標設定が立った。それは海外で雇用を創ること、海外でも生活に困らない情報接点として通信事業を生業とすること、海外の敷居を下げること、この辺を20代のキャリアを積む中で少しずつ解像度が高くなっていった。こんな事業で海外に身を置き、それに携わることが自分も一番ワクワクして、幸せな生き方だと思え、それを妄想しながら仕事をしていたので、その後の20代はとても充実していた。

 

まとめ

インドの留学、バックパッカー、カナダで最初の就業経験、通信事業との出会い、が20代前半のハイライトになるが、意識も低く、本当にクズのような人間だった自分が、偶発的なインドの出会いと経験で少し変われた。

振り返ると、決して器用な生き方では無かったが、今、周りの多くの尊敬する方々や、一歩踏み出してタイの当社で働いていくれている社員、お客様やパートナー企業、多くの良い出会いに恵まれて、楽しい毎日を贈れている。結果的に、一番正しい道を歩んできたと思っている。

とは言え、今の若者や息子に自分と同じような道を辿ることを勧めるかと言ったら、再現性は低いと思う。私は若いうちに、海外で移住したり、起業する経験できて良かったが、実は何でも良かったと思っている。自己責任の中で道を決め、覚悟を持って一歩踏み出すか、その覚悟が大きい方がより大きな跳ね返りがある、というだけで、それぞれの個性にあった道を自分で選べばよいと思う。私は環境適応型の人間で、すぐに甘えが出てしまうので、厳しい環境自体を自分で作り、周りに宣言して、退路を断って海外移住や起業をしたことが、自分にマッチしていて、よりエキサイティングだったのだとは思う。

そういうチャレンジをする人たちを応援する存在でありたい、と学生時代に思い描いていた将来像に少しは近づけているのかな、まだまだ出来てないな。。。と、今回は振り返る良い機会になった。先週に続き、今日からタイは3連休。バックパッカーで来ていた頃を思い出して、カオサン通りあたりを少し巡ってみることにした。

 

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