Vol 17. 役員就任、そして大株主に

Vol 17. 役員就任、そして大株主に

今回は、私の海外起業奮闘記、第2弾です。
第1弾の過去記事はこちらから。

 

10年前のa2network

2012年当時のa2networkは、苦しい状況だった。債務超過で自転車操業状態、創業社長の門田は金策に腐心して、成れの果てにはぶっ倒れた。人も定着せず、離職者が止まらない。資金調達時に公言していた技術開発は継続投資するものの、アンドロイドの台頭でOSレベルでオープン化されたスマホの新潮流は、ガラケーの組み込み技術を完全にマーケットから追いやった。

VCの回収期限も迫り、株主たちの投資回収と手仕舞いに向けた動きも始まった。運転資金もままならない状況なのに、銀行借り入れの返済や追加融資交渉で奔走する中、膨れ上がった数多の株主との調整などで本業にも手が回っていない。そんな状況で、一番頼りたい共同創業者にも、仕舞いには愛想を尽かされ、退職された。

この会社は完全に詰んでいた。

そこにスーパーマン伊藤の登場、からのV字回復!なんてストーリーが書ければ良かったが、ビジネスはそんなに甘くはない。

 

門田という人間

なぜ、ここまでして事業を継続したいのだろう?
こんな状況なのに、なぜ、ここまで人に優しくなれるんだろう?
そもそも、今、楽しいのかな?

a2networkの創業者、門田という人間にだんだん興味を持つようになった。
門田は、優しすぎる程、お人好しだ。お人好しが過ぎて、相手を慮(おもんばか)りすぎて決断できないことも多く、ヤキモキされる、なんてことも少なくは無い。とても出来た立派な人間だが、器用な方ではない。いや、完全に不器用を地で行く人間だ。当時のa2networkという会社は好きになれなかったけど、そんな門田は好きだった。

門田からは「一緒にやろう」とお誘いを頂いていたが、マイナスから始めるくらいならゼロからやりたかった。逆に、「借金まみれの会社は清算して、私の会社で1から一緒にやりませんか?」くらい失礼な逆提案で口説き合っていた。

特にシンガポール時代は、門田と多くの時間を共有して本当に沢山のことを話した。私には死に体に見えていた会社だったが、プライド高く、輝かしい未来を門田はずっと語っていた。もはや誰も信用してないその未来だったが、それでも投資してくれた株主には何とか報いたい、という想いは強かったようだ。

一方、私は私で、創りたいビジネスの方向性や、将来辿り着きたい絵があった。それが、なぜか、門田とはほぼ一致していた。お人好しのことだから、私に合わせた部分もあるかも知れないが、得意・不得意が補える点で同じ方向性のことを別々の会社でやるのは勿体ない、という意見は一致していた。

 

最後の大勝負

a2networkとしては、シンガポール事業の売却を目前に控え、その後の打ち手がほぼ皆無の状態だった。売却益だけでは借金返済額には到底及ばず、更にはシンガポール以外の全拠点で赤字が続いていたので、追い銭がまだまだ必要な状況だった(当時、日本を本社として、イギリス、ドイツ、ベルギー、タイに拠点があった)。

VCから調達していた手前、期限までに上場するか、死ぬしかない。正確に言うと、死なないまでもその株を誰かが買い取らないとならないが、そんな金はもう既存経営陣に残されている訳が無く、コネクションも使い切っていた。

そこで、社運を賭けて、勝負の一手に出た。

シンガポール事業の売却益で借金返済はそこそこに、東南アジアへの更なる多拠点展開に再投資して、「アジア・欧州でのグローバルMVNO=ベリーモバイル」の上場シナリオで、4年後のマザーズ上場を描いたのだ。そして、私は、それをアジアの分掌取締役として全て一任してもらえるなら、a2networkに参画する、と申し出た。お人好し門田に不義理を働いた人間たちに一矢を報いる為にも、門田を男にしたい、という想いも持ち始め、方向性が重なった瞬間だった。

この時点で、一旦、自分の会社の事業は止め、資本金も引き上げてa2networkへ資本参加し、このミッションに賭けた。

32歳の時だった。

 

a2network役員就任と資本参加に至った思考プロセス

なぜ、自分で会社をやりたかったのか、何を実現したかったのか。

実際に自分の会社をシンガポールで立ち上げ、暫く運用してみて気付いたのだが、創業者であることや、100%の株主であることは、自分にとってあまり重要ではないし、どちらかと言うとどうでも良いことだった。社長と呼ばれることも、未だに自分で名乗ったことも無ければ、社員に呼ばせたことも無い。むしろ、社長と呼ばないでくれ、と言っている。(たまにイジられて呼ばれることはあるが・・・)

じゃ、なぜ、自分で会社をやりたかったのか、と言うと、「自由と責任」だ。

ビジネス自体が元々大好きで、経営という仕事が楽しくて仕方ない。一生賭けて極めていきたい領域でもある。やりたい事業とその作り方のこだわりが、自分の大切な人生そのものなので、誰かに、その舵取りされることが一番気持ち悪かった。「オレはこっちの方が良いと思ってたのに」と、後で言うような環境に身を置くのは不幸だ。

逆に、やりたいことが自分の「自由と責任」でやれる環境であれば、自分の創業した会社にこだわる必要も無いかな、と思えた。自分の会社でやりたい事を実現するとしても外部資本が必要だったので、その計画の持株比率と変わらない位のアグレッシブな提案を持ちかけてくれたのも、決め手のひとつだった。要は、私が自分の会社と思えるような「第2創業」の資本・役員構成に、門田が私を慮って用意してくれたのだ。

債務超過で生き延びる術があることは、経営の教科書では学べなかったことだ。経営の厳しさと護身術を門田から沢山学んだ。最後の決め手になったのは、このボロボロの財務状況ではあるが、日本国家の財政バランスシート(プライマリーバランス)を見たときに、ゼロ幾つか取ったら、この会社のB/Sと似通った感じだと気付き、「あ、この会社、日本よりはマシなんだな」と気付いたこと。日本国家よりはコントローラブルな泥船だと思えたら、なんだか楽観的になれた。笑

 

転職のキャリア設計

最近、名だたる大企業に勤めていた若手駐在員が、タイの地場ベンチャーへ転職する、という話を聞いて、ふと思った。もし別の視点で、内情を知らない人間が、客観的に私のキャリアを「転職」として捉えたら、どう思うのかな?と。

最低賃金からスタートして2年足らずで本社の役員就任、大株主となり、報酬も何倍にもなった、というサクセスストーリーにも見えるかもしれない。仮にそれを正としたら、これは意外と再現性は高いと思う。

特にスタートアップは、高度人材の採用はカルチャーフィットしないケースも多く、最初から高い給与を払うことはとても難しい判断になる。最初は安い給与(なんなら無給インターンでも良いと思う)でも、成果に応じて、この役職・この給与・この待遇が欲しい、と最初に握ったうえでスタートすれば、両者がフェアな関係になる。

給料安くスタートするので、結果がすぐに出せなくても責任を感じなくて済むし、自分が思うような進め方、時間の使い方をしても、そこまで咎められないだろう。私の場合は、起業に直結するからシミュレーションも兼ねて、自分事としてシンガポール事業に全力で取り組んだ。死にかけの会社だったから、その本気の取り組みが救世主に映った部分もあったのかも知れない。結果的にこんな顛末になったが、こういうキャリアの積み方は大アリだと思っている。むしろ、この形が依存状態に陥らない、自律した労使関係の真のあるべき姿とすら思う。

今、仕事が楽しくない、惰性で悶々としながら労働を続けている、という人がいたとしたら、それは人生の浪費でしか無いので、こういう動き方もひとつのオプションとして考えてみてはいかがだろうか。悩みの大半は、心理的安全性の欠如から訪れる。それは、月収が一時落ちることよりも、リスペクトしていない人間に自分の人生の舵を取られていたり、ワクワクする未来が見えてないからのウェイトの方が大きいと私は思っている。それに早くに気付いて、行動を起こした先述の若手は、きっとこの先、良い人生を送れるはずだ。陰ながら、エールを贈りたい。

 

最後に

現時点でマザーズに上場もしてなければ、死んでも無い。
まだまだ紆余曲折は続くが、書ききれないので、また次の機会に。

今回の物語の主役、門田が昨年に還暦を迎えた。
今は日本本社のメンバーみんなから愛されていて、なんだかホッコリする。
最近、一時帰国も出来てないので、日本のメンバーにも会えてないのは寂しいが、今は本当に良いメンバーに囲まれていて、雰囲気も良さそうだ。

まだまだ働いてもらいまっせ!

 

 

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